自然とともに生きる人生を目指して

自然が好きな人間の人生録です。

お盆アウトドア

さお盆も終わりに差し掛かり皆様はどうお過ごしになられたか、私は仕事の移行期間がちょうど8/10~8/16の間だったので盆休みを送ることが出来た。嬉しいばかりである。

私は雨じゃない日は野外なりこちょこちょやりたかったことをを行ってたのだが(台風のせいで雨とかマジファッキン)その様子を分割して一気に書いてしまおうと思う。見てくれた方が少しでも野外に興味持ってくれると嬉し。

まず8/12にフィールドに出ることにした。

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左が午前の山。右が午後の河原の写真である。午前の方は特に目ぼしいものもなく樫の薪を少し貰って帰っただけなのだが午後はなんやかんや濃かった。

まず河原に向かうとかなりの人がいた、私が初めてなのだが泳ぐのにはいい場所なのだろう。車がひしめき合っていた。

普段の私なら100%スルーするのだが対岸の方には全く人が居なく、近くに森林があり河原に植物も生えている。多様性の関係で生物が多いと判断してそっちに向かったのだ。何より人が居ない。

最初は草木をナイフで刈って切り開いて現地まで行ったのだが奥の方に普通に行き道があった。次からはそこを使おう・・・。

現地についてからまず昆虫採取を決行することにした。まず捕まえたのはハグロトンボ続いてカワラバッタ、トノサマバッタモンキチョウと捕まえたのだが・・・・

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タマムシとアオスジアゲハには逃げられてしまったのだ・・・・

両方ともかなり綺麗な昆虫なのでぜひ調べて頂きたい(なので画像は載せなかった)

美人に逃げられ拗ねっとんだ私は近くの森林に竹が生えてるのを見て急遽密かにやりたかった「竹竿プロジェクト」を実行することにした。

プロジェクトといえど本格的なものではなく、竹も布袋竹ではなく真竹、時期も10~11月辺りが良いとされてるみたいだが、あえて真夏に作ることにした。

手ごろである程度真っすぐな竹を切り、枝を払いとったところで「油抜きもやってしまおう」という事で木陰でジッポで炙ったのだが・・・全然火力が足りない。

という感じで上の河原の画像にあるように焚火をして油抜きをしたのである。周りから見たら明らか浮いた存在だったようで明らか距離を取られていた。そら毎日ニュースで熱中症云々言ってる時期に川に来て泳がずわざわざ火を焚いてやってることがBBQとかじゃなく竹竿の油抜きて・・・そら誰もが距離取るわな('A`)

もちろん焚火の後処理もきちんと始末した。これ大事!

竿の今後もブログに書いていくとして、その日はそんな感じで終わりました。

 

仕事を変更することにした。

ブログをする時間もなく慌ただしく日常が過ぎていたため何も書けていなかったのだが

8月10日で転職することになった。というか転職せざるを得なくなっと書いたほうが正しいのかもしれない。

今は真夏。かなりの暑さが続く中。私の生物的欠落が音を上げた。皮膚疾患が再発し始めたのだ。造園業の仕事+発汗+暑さのための皮膚の機能調整諸々の皮膚に対する負荷でキャパオーバーしてしまったのだろう。7月の初めに片鱗を見せたのでもうその時に結論を出して社長に節を伝えた。

「片鱗だけで決断早くない?」って普通は思われるかもだが去年とその前の年は様子見をしたせいで2年前は半年集中的に治療することになり。去年は専学を辞めた後暫く体を治す期間が要ったのだ。「私はこの世で自分の体を一番に信用していない。」

車も買って将来山も買うというのにこれ以上無給期間は増やしたくないというのが本音だ。

しかしそろそろ8月になるのだが皮膚は悪くはなったが前のような急激な悪化はしていない。頑張ってくれているのだろう。年々強くなるとは聞いたがここまで目に見えて成果が出るのは初めてだ、3年でやっとってことはかなり時間はかかるという事だ。

その間に私が出来ることは金を貯め知識を集め自分が納得できる将来を目指すことである、もちろん山での小屋暮らし、自然の一部に溶け込みたいのである。

一歩づつ確実に進んでいこうと思う。

人生相談のGW

私は今27歳になるのだが、下記の記述で書いた出来事があるためまともな会社で働くのは今回初めてとなる。もちろん疾患時も働いてはいたがパートかバイトだった。むしろそれが限界の体だったのである。

元々自分は器用な方ではなく、社会人としての経験値も足りず未熟なためかなり職場で「常識」の事で怒られてしまう。言葉の使い方はもちろん、人との付き合い方など様々だ。正直私は怒られて当たり前だと思っている。なぜならば圧倒的に経験値が足りないからだ。闘病経験での「苦労」はしたが社会で働くことの「苦労」をまともに経験できなかったのだから。そして今後直していかないといけない課題でもある。

 

あともう一つ切り替えが早すぎるのも私の問題だと気付いた。今回職場の先輩と喧嘩「私は怒られてた方だが」正直どっちが悪いなんてのは無かった。纏めると、会社の車のドアが開いていた、最近私の忘れ物が目立っていたかつその車で書類を纏めていたので私が真っ先に疑われた、記憶にないから私はやってないと答えた、それでやったやってないの不毛な争いがおこったのだ。

もしかしたら私の忘れかもしれないが全く記憶にない。なのでその場ではやってないと言い切ったのだ、少し自分の記憶を疑うべきだったかもしれない。それで大ゲンカになってしまったのだ。お互い引くに引けなかったんだと思う。だがそうなる前に私の方で何とかよじれを回避できる方法はあったはずだ。その後も私は正直「辞めたらやめたでそれまで、私は自分も悪いと思うから謝りに行くが、考えて話してそれでもダメだったらそれまでの事」とすぐ割り切っていたのだ。

 

多分だが私の疾患は医者が明確に治療方を教えてくれるものじゃなかった。一応患者に一貫するダメなもののリストはあるが、さらにそれから自分の記憶をたどり、経験をさかのぼり、他に考えうる悪化要因を除去する必要があった。それを知るためには自分の体をその環境に置き、人体実験するしかなかったのだ。切り替えの早さ、ダメだった時の潔さはそこからくるものだと思う。専門学校や仕事もこの過程で諦めるしかなかったのだが。諦めるという行為は本当に辛いものだ。慣れたくもないし、慣れるべきではないとも思う。今回この経験も悪い方向へ行ってしまったのではないか?とも思う。

 

上記の事を前職場の先輩と次の日に親友に相談した。正直自分では改善点がわからない。当たり前だ、それを良しとして自分は発言したのだから。第三者に問題点をきくべきだと思ったのである。

やはり自分より人生経験の長い先輩から見て「問題」だらけだとの事、書くとさらに長くなるので省くが、色々問題点を教えてくれた。過去、先輩も同じことで悩んだようである。 誰もが通る道なのかな?

 

 

バンクシアの植え替えをした。

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今日は雨の日での休みだったのだが、バンクシアという植物の植え替えをした。

原産地はオーストラリアである。職場の先輩から頂いたものだ。

左がコーストバンクシア、右がヒースバンクシアである。

昼に赤玉と腐葉土を買いに行ったのだがその時からどんどん雨が強くなり植え替えを実行するか躊躇した。でもせっかくの休みなのでやることにした。

自分の仕事は現在造園業なのだが、社長の方針でこのようなオーストラリアの植物を触る機会が多い。いつか山を買い。家をセルフビルドし、庭を造り、日本の草本木本はもちろん。このような海外の植物も庭に植えたいと思っている。

いつかそんな日がくればいいな、いや自分がそうやっていくんだ。

地元和歌山の串本にある大島に行ってきた。

f:id:nazonoseinenn:20180328164753j:plainかなり久しぶりの晴れの日の休みだったので串本の大島に行ってきた。自分は和歌山に住んではいるが過去行動力というものがなかったおかげで遠出など基本したことがなかった。上の写真は大島で潜った森である。詳しい位置などはしらん。

まずトルコ記念館によりそこから森に入った。暫く探検した後昼頃昼食を食べに向かい、串本の道の駅へ向かった。

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道の駅の海岸にある急なのり面を登ってみたのだが反対側に道がある+何かが祭られている+観光に来てた外人と登った瞬間鉢合わせるというトリプルパンチを食らった。相手方は少し戸惑った後に「こんにちわ」と言ってきてくれたので自分も「こんにちわ」と返したのだが、びっくりさせて少し申し訳ない気分になった。

次の晴れの休みはいつかは分からないが、こんな感じでブログを書いていこうと思う。

まずは自分の事を書こうと思った(後編)

実家に戻ると体はみるみる治って行った。ただ心の方はというとぽっかりと大穴が開いたままだった。運動の散歩をしてる時も道端の草。鳥の声。海辺にいる鴨。その世界を知ってしまっていたためか自然と目がそれを追っていた。

生きるうちは金が必要なので知り合いのコンビニで働く事にもなったが、追い求めていた物とはかけ離れすぎた生活に精神面が全然安定しなかった。幸いにも専学時代にこの症状を見れる医者と出会えたことで病気を治せるようにはなったのだが、そこで知った現実は皮膚学会の連中らが薬の副作用をひた隠しにしてその薬での治療を続けてるというものだった。今現在自分の体は元の状態に戻っているが。薬などは一切使わなかった。というか必要なかったのだ。

医者のせいで地獄を見せられたことに私はずっと強い怒りを覚えていた。ようやく自分生きたい道が見えてきたのに体が動かなければ何もできない。身一つで将来を切り開こうにも行動できない。実家を離れて一人で暮らそうとしてもこの病気のおかげで体を壊して帰ってくる。正直うんざりだった。「いまだに私は親元を離れられないのか・・・」と。

流石にこのままではやばいと思ったので興味があった造園業の方に仕事をシフトさせることにした。「やりたかった職種なら病気でダメになったとしても満足して辞めれる」そう思ったからだ。幸いながら今も造園業を続けることが出来ているが、当時の自分は自然での小屋暮らしがしたいとはずっと思っていたものの、皮膚の病気のせいで「出来るわけがない」とずっと思っていた。

 ただここ最近外の仕事でも皮膚は悪くなることなく続いているので「数年後には適応力を取り戻し、小屋生活も夢じゃないのではないか?」そう思えてきたのだ。

始めに自分のことを書こうと思った。「中編」

3年ほど体は良くなっていっている。けど「完璧には治らない状態」のまま生活していた時だった。母親が「体もだいぶ良くなったし専門学校行って学んでくるか?」と言ってくれたのだ。自分は病気になった時「何故色々チャレンジ出来る体が有ったのにしなかったのか」とすごく後悔した。なのでこれを機に新潟の自然系の専門学校へ行くことにした。

しかしながら家を出て生活環境が変わったことで自分の皮膚は悪化した。1年次が終わるころにはアトピー性皮膚炎とさらにウィルス感染に犯され、皮膚がグチャグチャの足をひこずりながら学校へ行った。でもそんな生活は長く持たなかった。2年次初めで動けなくなり1年間の自宅治療を行った。完璧に皮膚が治って再度復学したが再発して退学せざるを得なくなった。

再発の原因は「新潟の環境に皮膚が適応できなかった」というどうしようもないものだった。医者曰く年月とともに解決するようだが、薬害から回復して1年程度じゃどうすることもできなかったのだろう。

私は治っていた実家に帰って仕事をすることにした。